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世界の陶磁器産地 | イギリス編

9月29日
読了時間: 6分

更新日:9月30日

なぜ、焼きものは近代産業になったのか。


18世紀のヨーロッパで、中国磁器は富と教養を示す高価な輸入品でした。

イギリスでも、中国のように白く、薄く、硬い器を国内でつくることが求められます。しかし、イギリスの陶磁器産業を発展させたのは、磁器の製法を再現することだけではありませんでした。

原料を調合する。形を規格化する。工程を分ける。模様を印刷する。運河で原料と製品を運び、カタログを使って販売する。

イギリスでは、器をつくる技術と、生産して市場へ届ける仕組みが結びつき、焼きものが近代産業へと変わっていきました。その中心となったのが、イングランド(England)中部のストーク・オン・トレント(Stoke-on-Trent)です。



※ここで紹介するのは、イギリスの陶磁器産地の一部です。地域名と企業名が重なる場所もありますが、企業の歴史だけでなく、その周囲に形成された産業の仕組みに注目します。



ストーク・オン・トレント(Stoke-on-Trent)|「ポタリーズ」と呼ばれた産地

ストーク・オン・トレントは、イングランド中部のスタッフォードシャー(Staffordshire)に位置します。

現在の市域は、バースレム(Burslem)、ハンリー(Hanley)、ストーク(Stoke)、タンストール(Tunstall)、フェントン(Fenton)、ロングトン(Longton)という六つの町を中心に形成されました。地域全体が陶磁器産業によって発展したことから、「The Potteries」と呼ばれています。


この地域では、17世紀頃から小規模な陶器生産が行われていました。周辺で粘土や石炭を得られたことに加え、18世紀になると、原料業者、窯をつくる人、型職人、絵付け職人、銅版を彫る人、商人などが集まり、地域の中に分業体制が形成されます。

陶磁器産業に必要な原料が、すべて地元で採れたわけではありません。白い器に必要なカオリンなどは、コーンウォール(Cornwall)をはじめとするほかの地域から運び込まれました。

ストーク・オン・トレントの強みは、一種類の優れた土ではなく、外部の原料を受け入れ、加工し、製品にして送り出す仕組みが地域に集まっていたことでした。



ウェッジウッド|品質を繰り返しつくる

1759年、ジョサイア・ウェッジウッドは陶磁器製造を始めました。

ウェッジウッドは、乳白色のクリームウェア、黒い素地を持つブラックバサルト、色のついた素地に白い装飾を重ねるジャスパーウェアなどを開発しました。王妃シャーロットに採用されたクリームウェアは「クイーンズウェア」と名づけられ、王室との関係が商品の信頼性を高める役割を果たします。


しかし、ウェッジウッドの重要性は、新しい色や素材を生み出したことだけではありません。

原料の配合や焼成条件を記録し、形を規格化し、工程を分け、完成品の品質を管理する。職人の経験に頼っていた製造を、同じ品質の製品を繰り返しつくれる仕組みへと変えていきました。

1769年には、運河に近い場所にエトルリア工場(Etruria Works)を開設します。

ウェッジウッドの成功は、一人の発明だけで生まれたものではありません。ストーク・オン・トレントに蓄積されていた職人、原料、技術、輸送、販売の仕組みを結びつけた結果でした。



トレント・アンド・マージー運河(Trent and Mersey Canal)|割れやすい器を市場へ運ぶ

陶磁器は、重く、割れやすい製品です。舗装されていない道路を馬車で運べば、完成した器が破損するだけでなく、工場へ運ぶ原料にも費用がかかります。大量生産が可能になっても、安全に運ぶ方法がなければ、産業は広がりません。

1777年に全線が開通したトレント・アンド・マージー運河は、ストーク・オン・トレントをほかの工業地域や港へ結びました。ウェッジウッドも建設を推進した人物の一人です。

運河によって、コーンウォールのカオリンをはじめとする原料を工場へ運び、完成品を国内外の市場へ送り出しやすくなりました。

産地をつくったのは、窯や工場だけではありません。原料を入れ、製品を出す物流も、陶磁器産業の一部でした。



スポード|模様を印刷し、磁器を広げる

18世紀後半、ジョサイア・スポードは、陶器への銅版転写印刷を改良しました。銅版に彫った模様を紙へ写し、その紙から器の表面へ絵柄を転写する方法です。手描きだけに頼らず、複雑な模様を比較的安定した品質で繰り返し施せるようになりました。青と白の模様には、中国磁器の意匠やヨーロッパで出版された風景画などが取り入れられました。遠い土地への憧れを描いた器が、同じ図柄で数多く生産されるようになります。


スポードは、ボーンチャイナの配合と製造技術の確立にも大きな役割を果たしました。

骨灰を加えたボーンチャイナは、白さと透光性を持ちながら、日常の使用に耐えられる強度を備えています。この技術は、イギリスを代表する磁器の基礎となりました。


転写印刷は装飾を、ボーンチャイナは素材を変えます。スポードは、高級品に見られた白さや装飾を、より広い市場へ届ける仕組みをつくりました。



ロンドン(London)・ランベス(Lambeth)|都市生活を支えた陶器

イギリスの陶磁器産業がつくったのは、食器や装飾品だけではありません。

1815年、ジョン・ドルトンらはロンドンのランベスで、炻器の製造を始めました。貯蔵容器や薬品用の器に加え、排水管や衛生設備に使われる製品を生産します。

人口が集中した都市では、上下水道や衛生環境の整備が重要な課題になっていました。水に強く、耐久性のある焼きものは、都市のインフラを支える工業製品としても使われます。その後、ドルトンは美術学校と連携し、装飾的な器の制作にも展開しました。

ランベスの事例は、陶磁器産業が食卓だけでなく、工業、医療、衛生、建築にも広がっていたことを示しています。



ウスター(Worcester)、ダービー(Derby)、コールポート(Coalport)|高級磁器を競った地域

イギリスの陶磁器産業が、すべて大量生産を目指したわけではありません。

ウスターでは1751年に磁器製造が始まり、転写印刷や手描き装飾を用いた器がつくられました。ダービーやコールポートでも、王室や富裕層の需要に応える磁器が発展します。

精緻な絵付け、金彩、花や風景の装飾。工場による分業を取り入れながらも、熟練した職人の手仕事が商品の価値を支えました。


ストーク・オン・トレントが大規模な産業集積を形成する一方で、各地には異なる市場や表現を持つ磁器工場が存在しました。量産品と高級品、実用品と装飾品。イギリスの陶磁器産業は、複数の市場を同時につくることで発展しました。



器ではなく、仕組みを輸出する

イギリスの陶磁器産業は、東アジアから伝わった磁器や意匠を受け入れながら、それを工場生産と世界市場に適した製品へと変えていきました。その発展は、産業革命だけで説明できるものではありません。


茶を飲む習慣の広がり。中間層の成長。王室や富裕層による高級品の需要。植民地を含む海外市場。石炭、運河、港、機械、印刷技術、分業による生産体制。これらが重なり、器は一部の人が所有する貴重品から、多くの家庭が同じ形や模様を選べる商品へと変わっていきました。


一方で、その市場の拡大は、イギリスの植民地支配や世界規模の交易網とも切り離せません。安価な原料を集め、製品を大量に販売できた背景には、当時の政治的・経済的な力がありました。


ストーク・オン・トレントがつくったものは、器だけではありません。

原料を集め、技術を標準化し、工程を分け、品質を管理し、世界へ届ける。

焼きものを産業として成立させる仕組みそのものが、この地域から広がっていきました。







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