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世界の陶磁器産地 | イタリア編

10月7日
読了時間: 7分

白い土ではなく、土を白くした。


中国では、白い素地を高温で焼き締める磁器が発達しました。

一方、中世からルネサンス期のイタリアでは、磁器をつくるための技術も原料も、まだ十分に揃っていませんでした。そこで陶工たちは、鉄分を含む赤褐色の陶土を白い錫釉で覆い、その表面に色彩豊かな絵を描きました。

こうして発達したのが、イタリアの錫釉陶器「マヨリカ」です。


皿や壺の表面には、植物、動物、紋章、神話、宗教、歴史上の物語などが描かれました。器は料理を盛る道具であると同時に、富や教養、信仰を示すための絵画のような存在になっていきます。

イタリアの陶磁器産地は、一つの王立窯を中心に形成されたものではありません。都市国家、宮廷、修道院、商人、薬局、家庭など、それぞれの需要に応えるかたちで、各地に異なる産地が生まれました。


今回は、ファエンツァをはじめとする代表的な産地をたどりながら、イタリアで陶器がどのように都市の文化と結びついてきたのかを見ていきます。


※ここで紹介するのは、イタリアの陶磁器産地の一部です。現在のイタリアが統一されたのは19世紀であり、それ以前の産地は、それぞれ異なる都市国家や領邦の文化と市場の中で発展しました。
※ここで紹介するのは、イタリアの陶磁器産地の一部です。現在のイタリアが統一されたのは19世紀であり、それ以前の産地は、それぞれ異なる都市国家や領邦の文化と市場の中で発展しました。


マヨリカ|地中海を渡ってきた白い器

マヨリカは、素焼きした陶器に錫を含む白い釉薬を掛け、その上に絵付けをして焼成する陶器です。

透明な釉薬では素地の色が透けますが、錫釉を使うことで、赤褐色の陶土の表面を不透明な白にすることができます。その白い表面が、絵を描くための下地になりました。錫釉陶器の技術は、イスラム世界からイベリア半島を経て、地中海交易によってイタリアへ伝わったと考えられています。


「マヨリカ」という名称の由来には諸説ありますが、スペイン陶器の積出地となったマヨルカ島に結びつける説が広く知られています。イタリアの陶工たちは、伝わってきた技術をそのまま模倣したのではありません。地域の絵画や彫刻、宗教、食文化を取り込み、器の表面を独自の表現の場へと変えていきました。



ファエンツァ(Faenza)|町の名前が陶器の名前になった

北イタリアのエミリア=ロマーニャ州にあるファエンツァは、イタリアを代表する陶器産地です。中世から陶器生産が行われ、ルネサンス期には、色鮮やかなマヨリカの産地としてヨーロッパ各地に知られるようになりました。


ファエンツァの名はフランス語の「ファイアンス(faïence)」へと変化し、やがて錫釉陶器を表す一般的な言葉として使われるようになります。一つの町の名前が、陶器の種類を示す言葉になった。それほどファエンツァの製品が広く流通し、各地で認識されていたことを示しています。


16世紀には、白い余白を生かし、少ない色と素早い筆致で人物や植物を描く「ファエンツァの白」と呼ばれる様式も発達しました。装飾を全面に施す器とは異なり、白い釉面そのものの美しさを見せる表現です。

現在、ファエンツァには国際陶磁器博物館があり、イタリアのマヨリカだけでなく、世界各地の陶磁器、近現代の芸術やデザインまでを収蔵しています。

ファエンツァは、陶器を生産する町から、陶磁器文化を研究し、教育し、発信する都市へと役割を広げてきました。



デルータ(Deruta)|信仰と輝きの器

中部イタリア、ウンブリア州のデルータでは、中世から陶器生産が行われてきました。

1290年の記録には、デルータの教会が税を貨幣ではなく陶器で納めたことが記されています。陶器がすでに地域の重要な生産物になっていたことが分かります。

ルネサンス期には、町の中で多くの窯が稼働し、食器、壺、薬を保存する容器、宗教画を描いた陶板などがつくられました。最盛期には旧市街に52基の窯があったとされています。


デルータを特徴づける技法の一つが、金属的な光沢を生み出すラスター彩です。

一度焼いた器の表面に金属成分を含む顔料で装飾し、低温で再び焼くことで、金色や赤銅色に輝く表情が生まれます。この技法もイスラム圏やスペインから伝わったものですが、デルータでは宗教的な主題やルネサンスの装飾と結びつき、地域を代表する表現になりました。


教会や修道院、信仰を持つ人々の需要が、陶器を日用品から宗教的な記憶を残すものへと広げていったのです。



モンテルーポ・フィオレンティーノ(Montelupo Fiorentino)|フィレンツェを支えた生産地

トスカーナ州のモンテルーポ・フィオレンティーノは、13世紀から陶器生産が行われ、地中海を代表する生産拠点の一つへと発展しました。


モンテルーポの近くには、政治、金融、芸術の中心都市フィレンツェがありました。

宮廷や富裕層、修道院、薬局などが必要とする食器や保存容器を、周辺の生産地が供給しました。芸術家や職人が集まるフィレンツェの文化は、器の装飾にも影響を与えます。

さらに、アルノ川は原料や製品を運ぶ輸送路となり、下流のピサ港を通じて地中海や北ヨーロッパの市場へとつながっていました。フィレンツェがピサを支配し、海への流通経路を確保したことも、15世紀のモンテルーポの陶器産業を後押ししました。


モンテルーポの器は、一つの都市の中だけで消費されたのではありません。地中海から大西洋へ運ばれ、イギリスやオランダを含む各地で使用されました。この産地を育てたのは、土だけでなく、大都市フィレンツェの需要と、アルノ川から海へと続く交易網でした。



ヴィエトリ・スル・マーレ(Vietri sul Mare)|地中海の色を映した陶器

南イタリアのアマルフィ海岸に位置するヴィエトリ・スル・マーレでは、陶器が建物と町の景観に深く結びついています。黄色、青、緑などの鮮やかな色で描かれた魚、鳥、植物、人物。食器だけでなく、壁面や床、看板、教会のドームにも陶板やタイルが使われてきました。


海に面したヴィエトリでは、港を通じて原料や製品を運ぶことができました。地元の陶器文化には、ファエンツァなど北イタリアの技術や、地中海沿岸の多様な装飾文化も取り入れられています。

ここでは陶器が建物の内側だけに置かれるのではなく、町の外観そのものを形づくっています。

器が人の手の中で使われるものだとすれば、タイルや陶板は、人が暮らす空間全体を覆う陶器です。



カルタジローネ(Caltagirone)|階段と町を彩る陶器

シチリア島のカルタジローネも、イタリアを代表する陶器産地です。地中海の中央に位置するシチリアには、ギリシャ、ローマ、イスラム、ノルマン、スペインなど、異なる時代の文化と技術が持ち込まれました。


カルタジローネの陶器には、こうした複数の文化が重なった色彩や文様が表れています。食器や壺だけでなく、建築用のタイル、聖人像、薬壺、人の頭部をかたどった植木鉢など、多様な製品がつくられてきました。


町を象徴するサンタ・マリア・デル・モンテの大階段では、階段の蹴上げ部分が色鮮やかな陶板で飾られています。

陶器は展示ケースの中に収められた工芸品ではなく、人が毎日歩き、触れ、目にする都市の一部になっています。



都市が違えば、陶器も変わる

イタリアの陶器産地には、中国の景徳鎮やドイツのマイセンのような、一つの巨大な中心地があったわけではありません。ファエンツァでは、町の名が陶器の一般名称になるほど製品が広く流通しました。デルータでは信仰とラスター彩が結びつき、モンテルーポではフィレンツェの需要と交易が産業を支えました。ヴィエトリとカルタジローネでは、陶器が食卓を越えて、建築や町の景観にまで広がりました。

それぞれの都市が、異なる権力、宗教、市場、交易路を持っていたからこそ、地域ごとに異なる陶器文化が生まれたのです。


イタリアの陶工たちは、磁器のように白い土を持っていたわけではありません。その代わり、土の表面を白く覆い、そこに色と物語を描きました。イタリアが陶磁器の歴史に残したものは、磁器の硬さや白さではなく、器の表面を一枚の絵画へと変える技術と文化だったのです。


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