磁器をめぐる、世界の事情。
まだまだ、世界の陶磁器産地コラムは続きますが、ここらでちょっと一息です。
1644年、中国で明王朝が滅亡しました。
遠く離れた日本の有田にとって、それは思いがけない転機になります。
なぜ、中国の王朝交代が、有田の磁器と関係するのでしょうか。その背景には、磁器をめぐる世界の交易がありました。
世界の磁器をつくっていた、中国。
17世紀前半、世界の磁器生産をリードしていたのは中国でした。
なかでも江西省の景徳鎮では大量の磁器が生産され、東南アジア、中東、ヨーロッパへと運ばれていました。
当時のヨーロッパでは、中国や日本のような磁器をつくる技術はまだ確立されていません。白く、硬く、薄い磁器は、遠い海を越えて運ぶ価値のある商品でした。その交易を担った会社のひとつが、オランダ東インド会社(VOC)です。ところが17世紀半ば、中国で大きな変化が起こります。
1644年、明王朝が滅亡。
明から清へと支配が移る過程で戦乱や社会の混乱が続き、沿岸部の交易も不安定になりました。中国磁器の生産が完全に止まったわけではありません。しかし、それまでのように安定して磁器を調達することが難しくなっていきます。一方で、磁器を求める市場はすでにありました。オランダ東インド会社には、新しい供給先が必要になります。

その頃、日本では磁器がつくられ始めていた。
中国で混乱が起こる少し前。17世紀初頭、肥前・有田では磁器の生産が始まっていました。朝鮮半島から伝わった技術を背景に、有田周辺では磁器生産が発達していきます。磁器の原料があり、窯が集まり、生産の仕組みも整いつつありました。
中国磁器の供給が不安定になった時期と、日本で磁器産業が成長し始めた時期が重なったのです。
世界の磁器市場に生まれた空白。そこに、新しい産地として有田が現れます。オランダ東インド会社は、日本磁器に目を向けました。
日本にない器を、日本でつくる。
オランダ人は、有田にあった器を買うだけではありませんでした。海外の市場で必要とされるものを、日本でつくらせるようになります。初期の注文には、薬瓶や軟膏を入れる壺などの実用品もありました。
さらに、日本の陶工が知らない器の形を伝えるため、木や陶器でつくられた見本が日本へ送られることもありました。中国磁器を見本として示し、形や文様を日本磁器で再現することも求められます。
つまり、「日本で何がつくられているか」だけではなく、「市場では何が求められているか」をもとに、器がつくられ始めたのです。
有田に注文した、ひとりの商館長。
その動きを伝える人物がいます。ザハリアス・ワーヘナール。
オランダ東インド会社に所属し、17世紀半ばに長崎・出島の商館長を務めた人物です。
1659年、ワーヘナールは、自ら考案した意匠による磁器約200点を注文したことを記録しています。青い地に、銀彩の唐草を施した磁器でした。
ところが、しばらくすると、よく似た磁器が長崎の店に数多く並ぶようになります。ワーヘナールは、それらがありふれたものになってしまったため、引き取る数を減らしたと報告しています。
新しい商品が生まれる。売れそうだとわかる。似たものがつくられる。競争が起こる。
17世紀の磁器産地にも、すでにそんな市場の動きがありました。
有田から伊万里へ。そして長崎へ。
有田で焼かれた磁器は、伊万里へ運ばれました。伊万里は、有田をはじめ肥前各地でつくられた磁器が集まる積み出し港でした。海外へ向かう磁器は、そこから長崎へ運ばれます。
そして長崎から、オランダ東インド会社などの交易網に乗って海を渡りました。
有田でつくられた磁器が、のちに「IMARI」の名で世界に知られるようになる背景には、この流通がありました。

1659年、5,748点の磁器が海を渡る。
1659年10月15日。オランダ東インド会社の商船フォーゲルザンク号が長崎を出帆しました。積まれていた日本磁器は、5,748点。この航海は、日本磁器のヨーロッパへの本格的な輸出の始まりとして知られています。
初期の輸出品には、中国・景徳鎮の磁器を見本としたものや、ヨーロッパの陶器の形を写したものもありました。
中国で発達した磁器文化。朝鮮半島から伝わった技術。日本の産地。オランダの商人。
そして、その先にあった海外の市場。
一枚の器の中に、いくつもの地域の事情が重なっていました。
中国の代わりから、「IMARI」へ。
日本磁器が世界市場へ進出するきっかけのひとつは、中国磁器の供給が不安定になったことでした。
最初から、日本の磁器を世界へ広めることを目的に始まったわけではありません。世界の磁器市場に空白が生まれた。そのとき、磁器をつくる技術を身につけ始めていた有田があった。
そして海外から注文が入り、有田では、それまでつくったことのない形の器までつくられるようになります。
やがて有田の磁器は、中国磁器の代用品という位置づけを超え、「IMARI」として知られる存在へと変わっていきました。その後、中国の磁器生産と輸出が回復すると、今度は中国でも、日本の伊万里様式を意識した磁器がつくられるようになります。
中国磁器の代わりとして世界へ出た日本磁器。その日本磁器が人気を得ると、再び中国がその市場へ入ってくる。
磁器の歴史は、ひとつの産地だけで完結していたわけではありません。
政治が変わる。
交易が止まる。
別の産地に注文が入る。
新しい器がつくられる。
市場が動けば、産地も動く。
1644年、中国で起きた王朝の交代は、遠く離れた有田のものづくりにもつながっていました。
一枚の磁器の背景には、産地の技術だけでは見えてこない、世界の事情があります。



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