磁器をめぐる、世界事情2。
磁器のつくり方は、国家機密だった。
18世紀初頭のヨーロッパ。
王侯貴族の宮殿には、中国や日本から運ばれてきた磁器が並んでいました。
白く、硬く、薄い。
光をわずかに通すほどの白い器を、ヨーロッパではまだつくることができませんでした。
中国や日本から買うことはできる。しかし、自分たちではつくれない。
磁器は、美しい器であると同時に、ヨーロッパがまだ持っていない「技術」でもありました。
なぜ、それほど「白さ」を求めたのか。
ヨーロッパにも、それ以前から白っぽい陶器はありました。しかし、中国から運ばれてきた磁器の白さは、それまでの陶器とは性質が違いました。
白く、硬く、薄い。
しかも、薄くつくられた磁器は光をわずかに通します。その白い素地の上では、コバルトで描かれた青や色絵も鮮やかに映えました。ヨーロッパの人々が驚いたのは、単に「白い器」だったからではありません。
なぜ、これほど白く、薄く、硬いものがつくれるのか。
その白さは、自分たちがまだ持っていない製造技術が、目に見える形になったものでもありました。そして、その技術を持たないヨーロッパにとって、中国や日本から長い航海を経て運ばれてくる磁器は希少な商品でした。
王侯貴族たちは磁器を集め、宮殿を飾り、ときには大量の磁器を並べた「磁器の間」までつくりました。磁器を所有することは、富だけでなく、遠い世界とつながっていることを示すものにもなっていきます。
やがて関心は、器そのものから、そのつくり方へ向かいます。
「どうすれば、自分たちでもこの白い磁器をつくれるのか。」
磁器をめぐる競争は、ここから「技術」をめぐる競争へと変わっていきます。
磁器に夢中になった王。
その一人が、ザクセン選帝侯でポーランド王でもあったアウグスト強王です。
彼は中国や日本の磁器を熱心に収集しました。
現在のドレスデン国立美術館の磁器コレクションには、彼が集めた中国磁器、日本の有田磁器、そして後に生まれるマイセン磁器が残されています。しかし、海外から磁器を買い続けるだけではありませんでした。
「自分たちでも、これをつくれないか。」ヨーロッパ各地で、中国磁器の製法を再現しようとする試みが続いていました。

金をつくるはずだった男が、磁器をつくった。
ここで登場するのが、ヨハン・フリードリヒ・ベトガーです。
もともと彼が期待されていたのは、磁器ではありません。錬金術によって、金をつくることでした。
アウグスト強王のもとで事実上拘束されながら研究を続けたベトガーは、物理学者・数学者のエーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウスらとともに、さまざまな鉱物や粘土、高温焼成の研究を進めます。
その実験の先にあったのが、金ではなく磁器でした。
1708年、ヨーロッパで硬質磁器の焼成に成功。
1710年には、アウグスト強王によってマイセンの磁器製作所が設立されます。
ヨーロッパで初めて、本格的な硬質磁器生産が始まりました。

製法は「Arcanum」と呼ばれた。
問題は、ここからです。
せっかく手に入れた磁器製造の技術を、ほかの国に知られるわけにはいきません。
マイセンでは磁器の製法を「Arcanum(秘法)」と呼び、その情報は厳重に管理されました。
磁器をつくるには、原料だけを知ればいいわけではありません。
どの鉱物を、どの割合で配合するのか。どのように成形するのか。どの温度で焼くのか。窯をどうつくるのか。
原料、配合、焼成、窯。それらが組み合わさって、初めて磁器になります。磁器製造は、ひとつのレシピではなく、産業技術そのものでした。
しかし、秘密は人と一緒に動く。
どれだけ秘密を守っても、技術を持っているのは人です。1718年、ウィーンにヨーロッパで二番目となる硬質磁器の工房が設立されます。その設立には、マイセンで働いていた人物たちが関わっていました。
さらに翌1719年には、マイセンで磁器製造の秘密を知る「アルカニスト」だったザムエル・シュテルツェルもウィーンへ移ります。マイセンが守ろうとしていた技術は、人の移動とともに外へ流れ始めました。
一方、中国では。
ほぼ同じ時期、中国・景徳鎮ではフランス人イエズス会士フランソワ=グザヴィエ・ダントルコルが磁器づくりを詳しく調べていました。彼は景徳鎮を訪れ、磁器に関わる人々から話を聞き、原料や製造工程、窯について調査します。その内容を1712年、そして1722年の二度にわたってヨーロッパへ書き送りました。
そこには、磁器の原料や成形、施釉、焼成、分業された生産の様子まで記されていました。
ただし、ここには面白い時間差があります。最初の手紙が書かれたのは1712年。
マイセンでは、その4年前の1708年に、すでに硬質磁器の焼成に成功していました。
つまり、ダントルコルの手紙によってマイセン磁器が生まれたわけではありません。
ヨーロッパでは独自に磁器製造を成功させる一方、中国では別のルートから磁器産業の詳細な情報が集められていたのです。
器は、技術だった。
中国や日本からヨーロッパへ運ばれた磁器。最初に求められたのは、その美しさでした。
しかし、磁器が大量に輸入されるようになると、ヨーロッパが欲しがったものは器そのものだけではなくなります。
「どうすれば、これをつくれるのか。」磁器は商品であると同時に、手に入れたい技術になりました。
そして、その技術を手に入れた側は、それを守ろうとする。しかし、技術を知る人が移動すれば、秘密も移動する。
中国からヨーロッパへ渡った磁器。
ヨーロッパで再現された製造技術。
マイセンからウィーンへ移っていった職人と知識。
磁器をめぐって動いていたのは、器だけではありませんでした。人が動き、情報が動き、技術が動く。
一枚の白い磁器の背景には、18世紀のヨーロッパが競って手に入れようとした「技術」をめぐる世界の事情がありました。



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