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世界の陶磁器産地 | ポルトガル編

10月20日
読了時間: 5分

なぜ、陶磁器は街を覆ったのか。


教会や宮殿の内部を埋め尽くす、青と白の物語画。住宅の外壁を覆う、幾何学や植物文様のタイル。

ポルトガルを歩くと、陶磁器は食卓の上だけでなく、街そのものを形づくる素材として使われていることに気づきます。その象徴が、装飾タイルのアズレージョです。


アズレージョの技術は、イベリア半島を支配したイスラム文化を背景にスペインから伝わりました。その後、イタリアのマヨリカ、中国磁器、オランダの絵付けタイルなど、各地の影響を取り込みながら、ポルトガル独自の表現へと発展します。


一方、国内ではコインブラの錫釉陶器、カルダス・ダ・ライーニャの造形的な陶器、イリャヴォの磁器産業など、地域ごとに異なる陶磁器文化が育ちました。


今回は、現在のポルトガルに位置する代表的な陶磁器産地と、陶磁器が建築へ広がっていった背景を見ていきます。


※ここで紹介するのは、ポルトガルの陶磁器産地の一部です。歴史上の窯場と現在の産地は、必ずしも同じ規模や生産体制で継承されているわけではありません。
※ここで紹介するのは、ポルトガルの陶磁器産地の一部です。歴史上の窯場と現在の産地は、必ずしも同じ規模や生産体制で継承されているわけではありません。



リスボン(Lisboa)・シントラ(Sintra)|タイルが建築を覆い始める

ポルトガルで装飾タイルが本格的に使われるようになったのは、15世紀末から16世紀初頭にかけてです。

国王マヌエル1世は、スペイン南部を訪れた際、イスラム文化の影響を残す装飾タイルに魅了されたと伝えられています。その後、セビリアでつくられたタイルが輸入され、シントラ宮殿など王室の建築に用いられました。

初期のタイルは、溝や土の隆起によって色釉が混ざるのを防ぎ、幾何学文様を表すものでした。

16世紀になると、白く不透明な錫釉の上へ、絵画のように文様を描く技法が広がります。タイルは繰り返し模様をつくる建築材料から、人物や風景、宗教的な物語を描く画面へ変化しました。

17世紀末から18世紀にかけては、青一色で描く大規模なタイル画が数多くつくられます。中国の青花磁器や、オランダのデルフト陶器などの流行も、その表現に影響を与えたと考えられています。

アズレージョは宮殿や教会だけでなく、修道院、庭園、階段、駅、住宅の外壁へと広がっていきました。

陶磁器は建物に置かれる装飾品ではなく、建築の一部になったのです。



コインブラ(Coimbra)|交易と大学都市が育てた器

ポルトガル中部のコインブラは、国内でも古い陶磁器生産の歴史を持つ地域です。モンデゴ川によって内陸と海岸部が結ばれ、人や物資が集まったことが、陶器生産の発展を支えました。少なくとも16世紀には組織的な生産が行われ、18世紀には錫釉を施したファイアンスの産地として知られるようになります。


コインブラの陶器には、青や黄、緑、紫褐色などを使い、植物、動物、人物、幾何学文様を手描きしたものがあります。一方で、地域の日常生活を支える、比較的簡素な器もつくられました。


「ラティーニャ」と呼ばれる生活陶器と、細かな手描き装飾を特徴とする「デゼーニョ・ペケーノ」。同じ地域の中で、日常の器と装飾性の高い器が並行してつくられてきたことも、コインブラの特徴です。

王室のためだけではなく、大学都市に暮らす人々や周辺地域の生活に支えられて発展した産地でした。



カルダス・ダ・ライーニャ(Caldas da Rainha)|自然と風刺をかたちにする

リスボンの北に位置するカルダス・ダ・ライーニャでは、古くから日用品を中心とする陶器がつくられてきました。

この産地を大きく変えたのが、画家、風刺画家、陶芸家として活動したラファエル・ボルダロ・ピニェイロです。

1884年に陶器工場が設立されると、野菜、果物、魚、昆虫、爬虫類などを写実的に表した器や、人々の暮らしをユーモラスに捉えた人物像がつくられました。

キャベツの葉をかたどった皿、魚の形をした器、トカゲやカエルが張り付いた壺。陶器は平面に絵を描く器ではなく、自然物や生き物そのものを立体化する表現へと広がります。

その背景には、この地域に残る民衆的な陶器の伝統と、ボルダロ・ピニェイロが得意とした社会風刺がありました。

カルダス・ダ・ライーニャの陶器は、実用品、彫刻、ユーモアの境界を越えた産地文化を生み出しました。


ラファエル・ボルダロ・ピニェイロ(AI生成によるイメージ)
ラファエル・ボルダロ・ピニェイロ(AI生成によるイメージ)

イリャヴォ(Ílhavo)|ポルトガル初の磁器産業へ

19世紀になると、ポルトガルでも磁器を国内で生産しようとする動きが生まれます。

1824年、実業家ジョゼ・フェレイラ・ピント・バストは、中部イリャヴォのヴィスタ・アレグレに、陶器、磁器、ガラスなどを生産する工場の設立を申請しました。

創業当初は磁器原料の調合が確立しておらず、ガラスや軟質の陶器などから生産を始めます。その後、原料の研究や海外技術の導入を重ね、磁器生産へ進みました。


ヴィスタ・アレグレでは、成形、絵付け、焼成を一つの工場に集め、職人の育成と品質管理を進めました。製品は王室や上流階級の食卓で使われるだけでなく、ホテルやレストランを含む業務用食器、国外市場へも広がります。

イリャヴォは、地域の手工芸的な窯場というより、技術開発と分業によって形成された近代的な磁器産地でした。



器から、建築と街へ

ポルトガルの陶磁器文化を特徴づけるのは、器の生産だけではありません。

スペインから伝わったイスラム系のタイル技術は、王室建築に取り入れられ、やがて宗教画や歴史画を描く大きな画面になりました。さらに住宅や駅の外壁へ広がり、街の景観をつくる素材になっていきます。


コインブラでは、交易と地域の暮らしが生活陶器と絵付け陶器を育てました。カルダス・ダ・ライーニャでは、民衆文化と風刺が立体的な陶器表現を生みました。イリャヴォでは、研究と分業によって磁器の工業生産が始まりました。


ポルトガルでは、陶磁器は棚の中に収まるものではありませんでした。

食卓から壁へ。壁から建築へ。そして、建築から街全体へ。

焼きものを一枚ずつ積み重ねることで、ポルトガルは自らの歴史や信仰、暮らしを、街の表面に描き続けてきたのです。










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