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世界の陶磁器産地 | ポーランド編

1 日前
読了時間: 7分

暮らしの器は、なぜ国境を越えたのか。



白い器の表面に、コバルトブルーの丸や花、孔雀の羽のような模様を繰り返し押していく。

日本でも広く知られるようになった、ボレスワヴィエツの陶器です。

しかし、この地域の器が最初から現在のような姿をしていたわけではありません。

かつてつくられていたのは、褐色の釉薬を施した、丈夫で実用的な炻器でした。現在のスタンプ模様が広がったのは、19世紀後半以降です。さらに、ボレスワヴィエツが位置するシレジア地方は、戦争や国境の変更によって、支配する国や暮らす人々が変わってきました。


それでも、土地にある粘土、窯の設備、器をつくる技術は、異なる時代の作り手へと受け継がれています。

今回は、ボレスワヴィエツを中心に、磁器産地のチミェルフやホジェシュ、ファイアンスで知られるヴウォツワヴェクをたどりながら、ポーランドの陶磁器産業がどのように形づくられたのかを見ていきます。


※ここで紹介するのは、現在のポーランドに位置する陶磁器産地の一部です。歴史上の国境、産地名、生産体制は、現在と異なる場合があります。
※ここで紹介するのは、現在のポーランドに位置する陶磁器産地の一部です。歴史上の国境、産地名、生産体制は、現在と異なる場合があります。



ボレスワヴィエツ(Bolesławiec)|「良い粘土」が育てた炻器の街

ポーランド南西部、ドイツとチェコの国境に近いボレスワヴィエツは、古くから陶器づくりが行われてきた地域です。街の周辺を流れるボブル川とクフィサ川の流域には、炻器の生産に適した粘土があります。


この粘土は、約1280〜1300度の高温で焼き締めることができ、吸水性が低く、丈夫な器になります。

ボレスワヴィエツの陶工に関する記録は14世紀まで遡り、16世紀初頭には陶工組合が組織されていました。

つくられたのは、壺、鉢、皿、瓶、保存容器、ビールジョッキなど、地域の暮らしを支える実用品です。

ボレスワヴィエツは、装飾品を専門につくる街ではありませんでした。

周辺で採れる粘土を使い、長く使える生活道具をつくることが、産地の出発点でした。



青いスタンプ模様は、後から生まれた

18世紀のボレスワヴィエツを代表する器は、現在の青と白の器ではありません。褐色の土灰釉を施した炻器が中心で、表面に白い粘土でつくった紋章、植物、鳥、人物などの装飾を貼り付けた器もつくられました。


19世紀になると、白く焼き上がる炻器素地が用いられるようになり、器の表情が大きく変わります。白い器に色模様を施すために使われたのが、スポンジやゴム製のスタンプです。丸、点、花、魚の鱗、クローバー、孔雀の目。単純な形を繰り返し押すことで、器全体にリズムのある模様が生まれます。


スタンプによる装飾は1880年代頃から広がり、やがてボレスワヴィエツを象徴する技法となりました。一見すると素朴な手仕事ですが、同じ模様を安定して生産しながら、押す位置や色の組み合わせによって変化をつけられる、工芸と量産の間にある技法です。


現在「ポーリッシュポタリー」として知られる器のイメージは、中世から変わらず続いてきたものではなく、市場や素材、生産方法の変化の中で生まれた比較的新しい伝統なのです。



陶芸学校が、産地を変える

1897年、ボレスワヴィエツに陶芸の職業学校が設立されました。

学校では、成形や焼成などの技術だけでなく、釉薬、装飾、造形、製品設計についても研究されました。それまでの徒弟制度では、技術は工房や家族の中で受け継がれることが中心でした。


一方、学校では、複数の工房に共通する技術を検証し、新しい釉薬や装飾を産地全体へ広げることができます。地域の伝統に、化学的な研究や美術教育が加わったことで、ボレスワヴィエツではアール・ヌーヴォーやアール・デコの影響を受けた器、流し釉や結晶釉を使った器などもつくられるようになりました。


産地を支えたのは、粘土と職人だけではありません。技術を共有し、次の世代を育てる教育機関もまた、ボレスワヴィエツを陶磁器産地へ成長させた重要な存在でした。



国境が変わっても、窯は残った

ボレスワヴィエツは、かつてドイツ語でブンツラウ(Bunzlau)と呼ばれていました。この地域は長くシレジアの政治的・文化的変動の中にあり、18世紀以降はプロイセン、のちにドイツ領となります。


第二次世界大戦後、国境が西へ移動したことで、街はポーランド領となりました。それまで暮らしていたドイツ系住民の多くは移住を余儀なくされ、代わってポーランド各地から新しい住民が移り住みます。戦争によって陶器工場や陶芸学校も大きな被害を受けました。


人も制度も変わった中で、陶磁器生産をそのまま継続することはできませんでした。1946年、ポーランドの陶芸家タデウシュ・シャフランらによって生産の再建が始まります。1950年には、旧工場を利用して芸術陶器の協同組合も設立されました。


新しい作り手たちは、残された設備や地域の粘土を使いながら、過去のスタンプ技法や炻器の伝統を研究し、ポーランドの産業として再構成していきました。


一方、ドイツへ移った旧ブンツラウの住民や陶工も、移住先で陶器づくりを続けました。ボレスワヴィエツの陶磁器文化は、一つの場所にだけ残ったのではなく、戦後、ポーランドとドイツの双方へ分かれて受け継がれたのです。



チミェルフ(Ćmielów)|工房から磁器産業へ

ポーランド中南部のチミェルフでは、18世紀末に陶器工房が組織されました。当初つくられていたのは陶器やファイアンスでしたが、19世紀前半には磁器生産が始まります。王侯貴族や富裕層に向けた食器をつくる一方、蒸気機関や新しい焼成設備を導入し、近代的な磁器工場へと発展しました。


チミェルフの特徴は、伝統的な食器だけではありません。20世紀には、幾何学的に単純化された動物や人物の磁器像など、彫刻と工業製品の間にある造形が生み出されました。工場の成形技術と、彫刻家やデザイナーの感性を組み合わせることで、日用品とは異なるポーランドの近代磁器がつくられたのです。


チミェルフでは、陶磁器工場が単なる生産設備ではなく、デザインを社会へ送り出す場所にもなりました。



ホジェシュ(Chodzież)|家庭の食卓を支えた磁器

ポーランド西部のホジェシュでは、19世紀半ばから陶磁器の工業生産が行われてきました。ファイアンスや磁器の工場は、地域の雇用を支えるとともに、多くの家庭で使われる食器を生産しました。


王室や上流階級のための豪華な磁器ではなく、日々の食事や祝いの席で繰り返し使われる器。ホジェシュの磁器は、工業化によって陶磁器が特別な所有物から、広く家庭に普及する生活用品へ変わっていく過程を示しています。


チミェルフとホジェシュは、後に同じ企業グループの中で生産や技術を共有し、ポーランドの磁器産業を支える存在となりました。



ヴウォツワヴェク(Włocławek)|工場の中で育った手描きの花

ポーランド中央部のヴウォツワヴェクでは、1873年から約120年にわたってファイアンスが生産されました。皿、鉢、花器、時計、燭台、照明器具など、製品は食器だけに限られません。特に知られているのが、白い器にコバルトブルーや茶、緑などで植物を描いた装飾です。


工場で成形された器に、絵付け職人が筆で模様を描くことで、工業製品の中に手仕事の表情が残されました。

第二次世界大戦後には、地域の花模様や民芸的な装飾を取り入れた器が数多くつくられます。同じ形の器であっても、描く人によって線や花の形は少しずつ異なります。ヴウォツワヴェクのファイアンスは、工場生産と手描きの装飾が必ずしも対立するものではないことを示しています。




受け継がれたのは、模様だけではない

ボレスワヴィエツでは、地域の粘土から丈夫な炻器がつくられました。

チミェルフとホジェシュでは、工房が近代的な磁器産業へ成長しました。

ヴウォツワヴェクでは、工場の中で手描きの装飾が発展しました。

ポーランドの陶磁器には、一つの国を代表する共通の色や形があるわけではありません。

また、それぞれの産地が、現在のポーランドという国の枠組みの中だけで育ったわけでもありません。

国境が変わり、住民が移動し、工場の所有者や制度が変わっても、土地の粘土、窯、道具、装飾技法は、次の作り手へと引き継がれました。


伝統とは、同じ人が同じものをつくり続けることだけではありません。

残された技術を別の人が学び、新しい暮らしや市場に合わせて使い直すことも、伝統をつなぐ方法です。


ポーランドの陶磁器産地は、器が国境を越えて運ばれただけでなく、技術や記憶そのものが国境を越えて受け継がれてきたことを伝えています。


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