中華料理は、なぜ世界の街にあるのか。——日本で日常の味になるまで
昼食にラーメンを食べる。夕飯のおかずに餃子を焼く。近所の店で炒飯を頼む。
中国にルーツを持つ料理は、日本の暮らしに深く入り込んでいます。
前回は、チョップスイを通して、アメリカに中華料理が根づく過程をたどりました。
では、日本ではどうだったのでしょうか。その歴史には、中国から渡ってきた人々だけでなく、料理を学んだ日本人や、大陸から帰国した人々も関わっています。
中華街ができる前から、交流はあった。
中国の食文化が日本へ伝わった時期を、ひとつの年に決めることはできません。近代の中華街が生まれる以前から、交易や仏教を通じた交流がありました。
江戸時代の長崎では、中国の食文化の影響を受け、大皿の料理を皆で取り分ける「卓袱(しっぽく)料理」が育まれました。日本や西洋の要素も取り入れ、刺身や豚の角煮、煮物などが同じ食卓に並ぶ、長崎ならではの料理です。
また、中国から渡った僧・隠元が伝えた「普茶(ふちゃ)料理」という、中国風の精進料理も根づきました。
中国から伝わったのは、食材や調理法だけではありませんでした。料理をどんな器に盛り、どのように並べ、誰と食べるのか。食卓の形にも、その影響が見られます。ただし、この時代の交流と、現在の街で見かける中華料理店の普及は、分けて考える必要があります。

開港が、人と料理を呼び込んだ。
近代の中華料理店につながる大きな転機のひとつが、幕末の開港でした。
1859年に開港した横浜には、欧米の商人とともに、中国人も渡ってきました。香港や広東、上海の西洋商館などで働いていた人々の中には、西洋の言葉を話し、日本人とは漢字で筆談できる人もいました。彼らは、生糸や茶の取引で仲介者として活躍します。
料理人だけがやって来たわけではありません。貿易商や職人など、さまざまな仕事を持つ人々が暮らしを築き、その生活の場に料理店や商店が育ちました。
横浜の中華街は、こうした人々の仕事と生活の集まりから形成されていきます。
その歩みには、戦争や震災による中断もありました。それでも料理をつくり、商売を続ける人々が、街の食文化を支えてきました。

港町の料理が、浅草の一杯になる。
中華料理は、港町の中国人社会を越えて、日本人が利用する外食にも広がっていきます。その過程を示す店のひとつが、1910年に東京・浅草で開業した「来々軒」です。
日本人の創業者が横浜から中国人の料理人を招き、麺料理や焼売などを提供したこの店は、多くの客を集めました。ラーメンが大衆的な外食として広まるうえで、重要な存在となります。ここでは、料理を伝える側と、店を営み客に届ける側が協力していました。
移住した人が故郷の料理をつくる。その技術を、新しい土地の商売につなげる人がいる。料理は、そうした関係の中でも広がっていきます。
長崎のちゃんぽんにも、暮らしと商売から生まれた物語があります。「四海楼」の店主が、中国人留学生に安く栄養のある食事を提供しようと考えたことが、その始まりとされています。肉や野菜、麺を合わせた一杯は、やがて長崎を代表する料理になりました。
帰ってきた人々も、味を伝えた。
日本での中華料理の普及には、もうひとつの人の移動が関わっています。
中国大陸で暮らし、戦後に日本へ引き揚げてきた人々です。
餃子は戦前にも日本で紹介されていましたが、戦後の普及には、現地でその味に親しんだ引揚者たちが大きな役割を果たしたと考えられています。その背景には、日本の大陸進出と戦争、敗戦に伴う帰国という歴史があります。
食文化の交流は、平穏な交易だけで進んだものではありませんでした。現地で食べた料理を、日本で再びつくる。それが暮らしを支える商売になり、周囲の人にも食べられるようになる。
中国から来た人々が伝えた料理と、中国で暮らした日本人が持ち帰った料理。その両方が、日本の中華料理を形づくっています。
同じ「中華」でも、来た道は違う。
ラーメン、ちゃんぽん、焼売、餃子。
私たちは、これらを身近な中華料理としてまとめて捉えています。けれど、その広がり方は同じではありません。
港町の中国人社会から伝わったもの。料理人を招いた店から人気になったもの。
帰国した人々の食の記憶から広がったもの。
日本の中華料理には、異なる時代の人の移動が重なっています。
そして、伝わった料理を店で食べ、家庭でつくり、次の世代が覚えていく。そうした繰り返しの中で、海の向こうから来た料理が、日々の食事になっていきました。
私たちが懐かしいと感じるラーメンや餃子の味にも、その長い過程が続いています。



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