Villeroy & Boch | ヨーロッパが求めた「白さ」
白く、硬く、光を通す磁器は、中国で長い時間をかけて発達しました。
中国磁器がヨーロッパへ運ばれるようになると、その白さと透明感は王侯貴族や富裕層を魅了します。当時のヨーロッパでは同じ性質を持つ器をつくれなかったため、磁器は富や教養を示す希少品でもありました。
ヨーロッパ各地では、その白さを再現しようと、原料や焼成技術の研究が続けられます。
18世紀初頭、現在のドイツ東部に位置するザクセン地方のマイセンで硬質磁器の製造に成功すると、フランスのセーヴル、ドイツのニンフェンブルクやKPMベルリンなど、各地に磁器工房が生まれました。
ヨーロッパが「白い金」と呼ばれた磁器を求めた18世紀は、現在まで続く陶磁器文化の基礎が築かれた時代でもありました。しかし、初期の磁器は依然として高価でした。
白い器をヨーロッパでつくれるようになっても、それを多くの人が日常的に使えるようになるまでには、まだ距離があったのです。

王侯貴族の磁器から、より多くの人の食器へ
その距離を縮めた企業の一つが、Villeroy & Bochです。
その歴史は1748年、現在のフランス北東部、ロレーヌ地方のオダン=ル=ティッシュで、フランソワ・ボッホと三人の息子が陶器の製造を始めたことにさかのぼります。
1766年には、現在のルクセンブルクにあるセプトフォンテーヌに工場を設け、手仕事を中心とした工房から、初期の工業生産へと歩みを進めました。
一方、ニコラ・ヴィルロワは1791年、現在のドイツ西部、ザールラント州のヴァラファーゲンにあった陶器工場の経営に参加します。石炭を燃料として生産を近代化し、銅版転写による絵付けを導入。同じ模様の食器を効率よく生産できる体制を整えました。
後に一つになる二つの事業は、それぞれ異なる場所で、同じ課題に向き合っていました。
美しく、質のよい器を、どのようにしてより多くの人へ届けるかという課題です。
白さを、別の素材で実現する
1809年、ジャン=フランソワ・ボッホは、現在のドイツ西部、ザール川沿いの町メトラッハにあった旧ベネディクト会修道院を取得します。そこに、多くの工程を機械化した、当時としては先進的な食器工場を設けました。
ジャン=フランソワ・ボッホが開発を進めたのは、ドイツ語で「シュタイン グート(Steingut)」と呼ばれる白色硬質陶器の一種です。
白く焼き上がる粘土に石英や長石などを調合し、透明な釉薬で表面を仕上げる。こうして、明るい白さと日常使いに耐える硬さを備えた器がつくられました。白色硬質陶器には、磁器のような半透明性や薄さはありません。しかし、磁器より低い温度で焼成できるため、原料や燃料の費用を抑えられました。
さらに、水力で動く機械や石炭を燃料とする窯を取り入れ、温度を管理することで、同じ形と品質の器を繰り返し生産できるようにしました。
人々が磁器に求めた白さ、硬さ、清潔感を、異なる素材と生産技術によって、手の届きやすいものにする。
それは、希少な「白い金」の価値を、日常の器へ翻訳する試みでもありました。

競争が、食器を産業に変えていく
当時のヨーロッパでは、工業化を先行させたイギリスの陶磁器メーカーが強い存在感を持っていました。
より大きな市場で競争するため、1836年、ボッホとヴィルロワの事業は統合され、Villeroy & Bochが誕生します。
ボッホが培った素材開発と機械化の技術。ヴィルロワが進めた生産の近代化と装飾技術。両者の強みを組み合わせることで、Villeroy & Bochは国境を越えて食器を供給する企業へと成長しました。
1840年代にはドイツ各地へ製品を送り、やがてパリ、ロンドン、ワルシャワ、モスクワなどへ販路を拡大します。鉄道網の発達も、重く割れやすい陶磁器の流通を支えました。
同じ形と品質の器を数多くつくり、破損しても補充できる。遠くの都市にも、安定して製品を届けられる。
この仕組みは、家庭だけでなく、後に発達するホテルやレストランにとっても重要なものになります。
Villeroy & Bochの歩みは、王侯貴族のための希少な白い器が、多くの人の食卓を支える製品へ変わっていった、ヨーロッパ陶磁器産業の歴史と重なっています。



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