一枚の器を、産地でつくる。日本の陶磁器と分業。
日本には、各地に陶磁器の産地があります。
有田、波佐見、美濃、瀬戸、常滑、信楽、備前、萩、唐津など。
なぜ、焼き物は特定の地域に集まってつくられてきたのでしょう。

その理由のひとつは、その土地にあるものです。
陶石や粘土など、器の原料となるもの。窯を焚くための燃料。原料の精製や製造に使う水。
そして、できあがった器を各地へ運ぶための道や川、港。
たとえば瀬戸では、良質な粘土と、燃料となる樹木に恵まれていたことが、産地形成の背景のひとつとされています。また、有田では17世紀初頭、泉山で磁器の原料となる良質で豊富な陶石が見つかったことが、磁器生産の大きな起点となりました。つくられた磁器は伊万里から積み出され、各地へ運ばれていきました。
ただし、焼き物の産地は、自然条件だけで生まれたわけではありません。
新しい技術を持った人が移り住んだこと。藩などが産業を保護し、育てたこと。商人が器を売り、流通を広げたこと。有田では、朝鮮半島から来た陶工たちによる技術と、佐賀藩のもとでの磁器生産が、産地の発展につながっていきました。
土地にある資源と、人の技術、そして流通。
それぞれが結びつきながら、日本各地に焼き物の産地が育っていきました。

一人でつくるのではなく、産地でつくる。
やがて生産が増え、より多くの器が求められるようになると、ものづくりの仕組みも発達していきます。
一枚の陶磁器ができるまでには、いくつもの工程があります。原料を調合し、土をつくる。型をつくる。生地を成形する。乾燥させる。素焼きをする。釉薬を施す。絵付けをする。窯で焼く。さらに、完成した器を検品し、各地へ届ける仕事もあります。すべてを一人、一軒の窯で担うのではなく、それぞれの仕事を専門とする人たちが担っています。こうした「分業」は、日本の陶磁器産地で発達してきた、ものづくりの仕組みのひとつです。

分業のかたちは、産地によって違う。
たとえば有田焼は、現在も「基本的に分業」とされ、成形、施釉、絵付け、焼成など、それぞれの分野の専門家が工程を担っています。
波佐見焼では、さらに細かな分業の仕組みを見ることができます。
四日市萬古焼でも、明治時代に品質の高い製品を効率的かつ安価につくるために分業制が発達し、現在も原料・坏土、型、生地、釉薬、上絵などを担う専門事業者が存在しています。
美濃焼にも、窯元だけでなく、製土、型、素地、釉薬、絵付けなどを専門とする事業者が集まる分業体制があります。
同じ「分業」といっても、その仕組みはどこも同じではありません。
何を分け、誰が担い、どうつないできたのか。
そこにも、それぞれの産地が歩んできた歴史が表れています。
分業は、技術を専門化させた。
分業には、多くの器を効率よくつくるという役割があります。けれど、それだけではありません。
一つの仕事を繰り返し担うことで、その工程に知識と技術が蓄積されていきます。
土を専門に扱う人。型を専門につくる人。成形を専門とする人。釉薬や絵付け、焼成を専門とする人。
それぞれが技術を深め、その仕事をつなぐことで、一枚の器がつくられていきます。
つまり「産地」とは、同じ地域に窯元がたくさん集まっている場所、というだけではありません。
異なる専門性を持つ人や会社が集まり、一つのものをつくることのできる場所でもあるのです。
変わりはじめている、産地の分業。
そして今、こうした分業の仕組みも変わり始めています。
需要の変化や原材料価格の上昇、事業者の廃業、後継者不足など、陶磁器産地を取り巻く環境は大きく変化しています。分業によって成り立つ産地では、ひとつの工程を担う事業者が減ることで、それまでの生産体制を維持することが難しくなることもあります。
一方で、窯元や商社がこれまでとは異なる役割を担ったり、外部に依頼していた工程を自社で行ったりするなど、それぞれの産地で、ものづくりの仕組みを組み替える動きも生まれています。
産地の分業は、昔から変わらない仕組みではなく、時代や需要に合わせながら、そのかたちを変えてきたものでもあります。
一枚の器を、産地でつくる。
それは、多くの器を効率よくつくるためだけではなく、それぞれの専門性をつなぐことで発達してきた、日本の陶磁器産地のものづくりの仕組みです。
一枚の器の背景には、ひとつの窯元だけではなく、産地というものづくりの仕組みがあります。



コメント